内容紹介
夏の読書感想文の定番,中高大学入試にも頻出の必読書。――――――人には14歳以後、一度は考えておかなければならないことがある!
今の学校教育に欠けている、14、5歳からの「考える」ための教科書。「言葉」「自分とは何か」「死」「心」「体」「他人」「家族」「社会」「規則」「理想と現実」「友情と愛情」「恋愛と性」「仕事と生活」「メディアと書物」「人生」など30のテーマを取り上げる。急逝した著者の代表作。

内容(「BOOK」データベースより)
人は14歳以降、一度は考えておかなければならないことがある。


途中までしか読んでいません

昨日、友達にすすめられ、冒頭部分から40ページほど読んだのですが、とてもおもしろかったです。むしろ、今のタイミングでこの本に書かれてあることを再考するのは、自分にとってすごくよかったと思います。もう24歳ではありますが...

というのも、「考えること」と「思うこと」をちゃんと分けてとらえることの大切さに、あらためて気づかされたからです。

「悩むこと」は「考えること」と同じではない、というのも、目からウロコでした。

単純に、14歳から、一度は考えておくべきことを通り過ぎて、10年間も過ごしてしまったのかもしれない。とおもうと、「もっと早くに知っておくべきだったのだろう」と残念な気持ちになりますが、それでも、どうしようか悩むよりも、どうしようか考えるほうが有益だ、ってことがわかったような気がします。

追記
昨日、東京から友達がきた。急な日程だったためバイトで休みをとれずに、一晩、家にほったらかしにするハメになった。バイト前に、旭山動物園に行った。
帰り、札幌駅まで送っていった。往復8時間。その運転の間にたくさん喋れたのが、せめてもの救いだ。

滅多に友達は来ないので、とてもうれしかった。

それから、自分のやりたいことがすこしだけ、明確になった。
それはこの本をすこし読んだことも関係してるだろうし、友達や彼女と話をしたからだともおもう。感謝である。

あとは、努力するだけだと”おもう”。そうすると、ずっと気分は楽だ。それが難しいのだろうけれどね。

追記
残りも読みたいので、図書館で借りることにした。
友達がブログでほめていたので読んでみた。小田扉。
短編集のようなもの、4冊。

全体的には、『そっと好かれる』のほうが好きだけど、『こさめちゃん』も悪くない。

「話田家」とか、すごくいい。
『ライフ イズ ビューティフル』くらいに素敵だ。

追記1
この前、バイトの人と海に行ったのだけど、意外と近いことが判明。

そんで、海に行って来た、ひとりで。意味なんかない。はじめてなので新鮮な気分で、そりゃあもう、はじめてビールの泡をなめた小学生みたいに複雑。

ほんのり、にがいぜい。

無料だったので、深川西から留萌への高速道路を走る。
なぜかしら、窓の外ながれる景色と音楽のシンクロに、ひとり感動。
誰も走ってないから、道路の真ん中で、車を停めてCDを変えてみたりした。

「さびしいなぁ、こりゃ」とかなんとか、ひとりごとをでかい声でさけぶ。おんなじ景色ばっかの田舎道で。

着いて、30分海をみて、家に帰った。
けつと腰が痛かった。

また行きたいな。

追記2
英検を受けてきた、準1級と2級。
中学のときに3級とってから、10年は経ってるけど、勉強した分、成長していてうれしくなった。俺は俺を肯定する、ちっさく。
でもさ、そこらへんの進歩史観って問題かねぇ。いや、わるくねぇよ。自己完結。
自己採点してみたら、わりとよくできてた。7割7分。
もし、マークミスと採点ミスがなければの話。

2級は、受けなくてよかったかもしれない。30分くらい時間余って、問題冊子にえびを書いたりした。えび、むずかしいぜ。

ライティングが心配。2次にすすめるといいな。

うかったら、1級、とりたいな。

追記3
このまえ、店長とか、バイトの人とかとドンキーでメシ食った。
腹とかへってなかったけど、まぁ。

なんやかんや話して、悩み事すくなそうだねと言われる。
「いやいや、絶望の日々送ってますよ」と答えて笑われる。

いやぁ、たしかにおかしいよね。全然、絶望なんかしてないもの。

なんかでも、方向転換したいなぁ。

ケーキとか作る人になりてぇもん。ぜんぜん、つくったことないけど。政治とか関係なさそう。技術の積み重ねがよさげ。うまいもん作っても、誰か不幸になることはないだろうよ。すてきすぎるぜ、製菓衛生士?

ただ、隣の芝生は青いからかも、センター試験で煮詰まったときとか、パントマイマーになりたかったし。

それに、となり町のケーキ屋(おっさんが手づかみでグロテスクなケーキをだす、変にかたい生クリームのまずすぎる商品しかない店)みたいに、いやいや続ける結果になっちゃう人もいるだろうし、なにやってもいい面と悪い面があるだろうけど。

まぁ、とりあえず、英検とボランティアとバイト、がんばるか。
そうだそうだ。うむ。
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傑作ぞろいと言われる岡崎京子作品のなかでも、誰もが「代表作」と言い切る作品。90年代はじめの「都会」に生きる高校生たちの姿を描く。

河口にほど近く、広く、ゆっくりと澱む河。セイタカアワダチソウが茂るその河原で、いじめられっこの山田は、腐りゆく死体を発見する。「自分が生きてるのか死んでるのかいつもわからないでいるけど/この死体をみると勇気が出るんだ」。過食しては吐く行為を繰り返すモデルのこずえもまた、この死体を愛していた。ふたりは、いつも率直で、「かわいい」ハルナにだけは心を許している。山田を執拗にいじめ抜くハルナの恋人、一方通行の好意を山田に寄せる少女、父親のわからない子どもを妊娠するハルナの友人。それぞれに重い状況を抱えた高校生たちがからみ合いながら物語は進行する。そして、新たな死体が、ひとつ生まれる。

本書は、93年から94年にかけて雑誌「CUTiE」で連載され、94年6 月に単行本化されたものの愛蔵版である。発表当時から多くの若者の心をとらえ、何年経ってもその評価が揺らぐことはなく、新たな読者を獲得し続けている。もちろん「若者」であっても、共感できる人もいれば、できない人もいるはずだ。

だがはっきりと言えるのは、本書が「読み物」としての興奮を存分に読者に与えてくれるものだということ。痛ましく、凄まじいこの物語に、きっちりと「おとしまえ」をつけて描き上げることのできる著者の圧倒的な力量には、誰もが魅せられるはずだ。(門倉紫麻)


行為に没頭していれば考えなくてもいい。仕事をしているとき、音楽を聴いているとき、映画をみているとき、バスケットボールをしているとき。何かをしているときの中には、うわの空になれる時間があって、その時はわりと幸せな気がする。

つまりは現実逃避ってやつだ。意識の真ん中に、どかっと座り込んでる問題にどこかへ行ってもらう、すこしの間だけ。

今日、素人が作ったドキュメンタリーフィルムを見た。社会問題を取り上げて、世直しのためにこんな行動してみましたよ、って話。

でも、内輪ノリでやっててクソつまんなかった。たぶん、あんなんじゃ、社会問題に興味のある人しか見ないだろう。受け手を限定するつもりはなかったんだろうけど、あんなの見る気しない。
社会風刺は、既知の問題を共有するだけじゃなくて、それを知らない人たちの精神構造を侵食して、向き合わせるくらい感動的じゃないと駄目だと思う。「そんな問題、どうでもいいじゃん」って人を感動させるくらいじゃないと駄目だと思う。
機能しないなら、その映画を見て行動を起こさせるようなものじゃないなら、風刺映画なんて、ただの愚痴だ。

映画に登場する人たちは、現状を見て悲しんでたりするけど、とくになにかをやるってわけでもない。見当違いの行為に没頭する人たちを見せられるだけ。全然、問題が見えてこない。

自分たちの無力さを見せるために撮ったのかと思った。

1キロの長さのマフラーをアフガニスタンに届けるのだって、ナンセンスだ。「かわいそうだ」と思うなら、それを編む時間を労働にあてて、稼いだ金をどっかの機関に、募金したほうがいいんじゃないかと思う。

結局、あの人たちのとって結果なんてどうでもいいのだ。「行為」への没頭それ自体が目的なんだから。
たぶん、あの映画の根底にあんのは、ナルシシズムとかエゴイズムに支えられたロマンティシズムだけ。現状が見えてこないのはそのせいだ。

ただ、見てて恥ずかしかったけれど、それって自分を省みてそうなったんだとおもう。たしかに、なにもやらないよりは、なにかしたほうがマシなことは多い。

嫌な気分。

絶望だったり、くよくよ悩むことだったり、そういうこと自体も何か別の問題を忘れるための行為だと思う。

人間はごはん食べて動いて、寝るだけじゃ駄目で、新しい刺激がないと頭がおかしくなる、って聞いたことがある。病院しかり、刑務所しかり、どこか窮屈に感じるのは、そこが外部から閉鎖されていて、新しい刺激の少ない状況だからだろう。

自分の行為に対して、同じ反応しか戻ってこない生活。実際ではありえない現象なんだけれど、日常って均一にみえがちなんじゃないだろうか。とくに日常が平坦に見えるとき、そんな錯覚があるとき、ってけっこうつらいとおもう。だから、ドラマチックに見せたがる。平坦に見える人生に、安易で大げさな起伏をつけたがる。

んで、「リバーズエッジ」

いまは2007年だ、このマンガが連載されていた1994年から、10年以上経ってる。で、そこらじゅういろんなものが溢れてる、もじゃもじゃとはみ出る勢いで表現がたくさんある。

そんなかで、悲惨なものも別に珍しくなくなった。暴力表現も性描写も、とりたてて騒ぐほどめずらしくない。むしろ、ハリウッド映画なんかじゃ、それを「売り」にしてる感じがするくらい多用してる。

最初、それは珍しくて衝撃的だったのかもしれないけれど、いまはそうじゃない。

メタルがあほくさいくらい様式化していて、そのテクニックのすごさが逆に物笑いの種にされるみたいに、パンクの定義が、ほとんど「ただのキャッチーな、3分ポップソング」になってるみたいに、大抵、消費されつくしたものは、製作者から離れて模倣されていく間に、その機能面に収束していくもんだと思う。

快感原則を知っている集団をターゲットにして、はみ出ない感じ。
ボーダーラインを踏み越えずに、とどまってる感じ

自分の中では、グランジとかヒップホップ、エレクトロニカや轟音系の音楽だって、消費されつくした感がある。消費されつくしたってのは、刺激に慣れてしまって、受け手の快感原則に取り込まれてるってことだ。もちろん、いつの間にか忘れてしまうものだから、いまだに感動するけど。

怖いのは、「リバーズ・エッジ」みたいなマンガを、マンガとしての機能面だけで捉えてしまうことだとおもう。おもしろい、引き込まれる。それは大事なんだろうけど、どうしてそんなふうに面白くする必要があったのかといえば、多くの受け手を獲得するためなんじゃないだろうか。そして、多くの受け手を獲得したかったのは、(お金儲け主義ってのもあるだろうけど)、たくさんの人たちと共有したい「主題」があったからだと思う。

90年代は絶望とシニシズムによりかかってた時代だったとおもう。印象でしかないけど、2000年代は、そういう絶望とは切り離された部分で暴力や性描写、死や孤独が描かれると感じる。
そういうものに慣れてしまっているからなのかもしれないけれど。

受け取った人々の間でモルヒネみたいに機能している物語。
現実感覚を麻痺させるだけの表現って、「現実逃避」っていう大事な機能を持ってるし、それはそれでとても重宝されているものだけど。

それでも、『世界の中心で愛を叫ぶ』みたいに、登場人物に感情移入させて殺すのが、「泣く」ために機能的に使われてるのっていやだ。

絶望「的」なものは、あくまで絶望じゃない。

時代も住んでる場所も違うけれど、表現を消費するときに、同じテンションで、受け取れたら面白いのになぁ。

追記
時間があるので、「すべての仕事は愛だ」って言葉、意味がわからないなりに解釈してみる。

とりあえず、それは「すべての愛は仕事だ」って意味じゃない。
「仕事」の定義域に収まってしまうもの、「仕事」って呼べるものすべてが、「愛」ってものの中におさまるってことだ。

「愛」と「仕事」の2つの円があって、ひとつの円がもうひとつの円にしっかりとおさまってるイメージ。

ってことは、どんな「仕事」をしていても、それは「愛」と呼べるってことだ。

例えば、保健所の方たちが近所をうろついている犬をつかまえて殺して焼く仕事も「愛」、料理をつくるのも「愛」、もちろん売春も「愛」だし、音楽を演奏してお金をもらうのも「愛」だ、ってことになる。

みんな、価値を生産する行為であると同時に、ある価値観を前提とした行為だとおもう。犬のうろついていない町を実現することだったり、おいしいものを食べて栄養を補給することだったり、性的な快楽を得る事だったり、音楽で感動を得ることだったり。

「そういうものは、あるいくつかの集団にとっては肯定されている」とまでは言わないけれど、そういうものは、そこで支配的な価値観に依存している。

犬が殺されて嫌な気分をする人も、町を犬がうろつくことには嫌な顔をするかもしれない。とりあえず保健所の人たち?は、町をうろつく犬に対して嫌な顔をする人たちのために、せっせと犬を殺すのだ。

わからないけれど、どんな仕事もそこから恩恵を受ける人もしくは動物や植物、対象がいるという意味で、「愛」であるってことなのかもなぁとおもう。

その恩恵の受け手が、どんなに少数だとしても、その行為を見下す人がいても、それは少なからず、ある人にとって「愛」のある行為ってことだろう。

んでもって、受け手のいない「仕事」がないように、仕事である「愛」は、一方的なものにはなりえない気がする。

ボランティアだって、なにかしら対価を受けているから。
お金じゃないもの、充実感とか。

善行にだって、自己愛が含まれている。

ある仕事の恩恵を受ける人が少なくても、「愛」ってことか。
「すべての仕事は愛である」って言葉は、大きさには言及していない。

それってけっこうな肯定じゃんとおもう。人間ひとりの行為の影響力の良し悪しも大小も、受け入れてしまうような言葉だとおもう。

って拡大解釈しすぎか。

「恩恵や効用の大きさで、「愛」の大きさを測るべきじゃない。」と言いたいがしかし、上のドキュメンタリー映画のやり方を批判してるってことは、上っ面とは矛盾してるね。

人の「善行」を、効用の小ささ、効率性で批判しちゃうのって人間が小さいよな。

文章書きながら、自分の首が絞まってく感じ。

そこらへん肯定しちゃえるくらいリベラルにつきぬけたいな。
出版社/著者からの内容紹介
街角で、酒場で、仕事場で、あなたの隣に猛毒の牙を持つ女性がいるぞ。男と女のこの世界で生き残りたければ、これを読んだ方がいい。
「沈黙の艦隊」のかわぐちかいじ氏も大激賞!!
「時代はエビちゃんOLから江古田ちゃん裸族へ!」ひうらさとる
「とりあえずお姉ちゃんが心配です!」ジョージ朝倉
女性読者の圧倒的支持を誇る超絶4コマ!



以下感想

面白かった。

前に、なんかで読んだのだけど、マンガでハダカを書くと読者のウケがいいらしい。
というか、

読者アンケートの人気投票で、ランクが上のほうになること。



漫画家がハダカを書くこと。

の二つが相関関係にあるってことを(因果関係にあるかはわかりませんよ)、どこかの漫画家が書いていたような気がする。

この作品は、主人公の江古田ちゃんのモノローグ形式で描かれている。自分の洗濯物を減らす目的で、彼女は、部屋の中を全裸で過ごしている。

でも、上に書いたようなカタチで、ウケ狙いの読者サービスになっているとは思えない。上のレビューにだって、女の人に支持されてますみたいなこと書いてあるし、そもそもぜんぜんエロくないし。

じゃあ、なんでこれ、ハダカにする必要があるんだろう、って思ったんだけど。
たぶん、それはおもしろくするためなのだと思う。

全裸でフラフープしたり、ごはん食べてたり、電話したりしてるだけで、かなりの違和感がある。
違和感があるから、視線が引っ張られる。

でも、そうじゃない部分のほうが面白いような気がします。江戸の人がアディダスのリュック背負ってたり、あぶらぎってるおやっさんを油田から来た人と形容したり。

読んでいる間、何度も「うわ、変だ。」と思いつつも、21世紀型のぶりっこ「猛禽」の定義に、「ハリウッド映画で泣く」ってところが入ってたりして、
かるく共感できる部分(「かるく」と言っておきたい)もあって、よかったです。

あと、こういう作品は、マンガでしか、楽しんで読めないと思う。
小説だと全裸だってことを忘れちゃいそうだし、アニメだと声とキャラの不一致に違和感を感じそう。
それに、映画だとみょうに生々しくて、ギャグになんない、たぶん。

対象との距離感があるから、すごくドライでクールに書かれているから笑えるけど、話自体が、わりと悲惨なときもある気がする。

ちなみに表紙の絵は、勢い良く、肉を食いちぎっている主人公です。

社会風刺漫画っぽい部分もあって、風刺対象と自分がかぶる時など、ちょっとドキっとしてしまうことがありました。(そういうときは苦笑い。)
出版社/著者からの内容紹介
大志を抱き、二十三歳でフランスに渡った著者が、夢に体当たりして掴み取ったものとは? 「早くゴールしないほうがいい」「効率のいい生き方をしていると、すり切れていってしまう」。激流のように過ぎゆく日々をくぐり抜けたからこそ出てくる、熱い言葉の数々。料理人にとどまらず、働く全ての人に勇気を与えたロングセラー、待望の文庫化。

内容(「BOOK」データベースより)
大志を抱き、二十三歳で単身フランスに渡った著者が、夢に体当たりして掴み取ったものとは?「早くゴールしないほうがいい」「効率のいい生き方をしていると、すり切れていってしまう」。激流のように過ぎゆく日々をくぐり抜けたからこそ出てくる、熱い言葉の数々。料理人にとどまらず、働く全ての人に勇気を与えたロングセラー、待望の文庫化。


なんかやってやろう、と思わせる本でした。
見習いたい部分がたくさんありました。
昨日、高野文子の漫画を読んだのだけど、面白かった。「もっと読みたい。」と思い本屋に行き、ひさしぶりにたくさん漫画を買った。

まだこの作品しか読んでいない。
これは、高野文子の作品じゃないけど。

『デトロイト・メタル・シティ』は、ギャグ漫画だと思う。

ミルクティーとオシャレポップスをこよなく愛する23歳の青年・根岸(大分出身)は、なぜか「DMC」というデスメタルバンドのリーダー・「クラウザー?世」として、インディーズ・デスメタルシーンのカリスマに祭り上げられている。

けど、彼はオシャレポップバンドをやりたいのだ。
このシンプルなジレンマが、この作品を支えている。

随所にちりばめられたボケは、デスメタル文化への偏見を利用して描かれている。過剰にデフォルメされた偏見が、作品世界の虚構性を強化していて、すごく面白い。

表紙に描かれているのが主人公なのだけど、メイクをしていないときの彼は、とてもいい人だ。

今日、初めて読んだ。喫茶店で読みながら、アタマのおかしい社長の喋り方に、笑いをこらえきれなくなったり。
帰ってきて居間で、悪魔球(痰)がおしゃれ俳優の口に入っていく部分を読んでいて笑ってしまい、父親から冷たい視線を浴びたりした。

デスメタルを聴いてみたくなる。
あと、画も、脱力してていい。

なんか断片的な感想になってしまった。
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寡作ながら時代のはやりすたりに流されない漫画を描き続ける、高野文子の4冊目の短編集。モダンで柔軟な絵柄と、ユーモラスかつ静謐(せいひつ)な描写と、高度で緻密な演出。これらが絶妙なバランスで同居する彼女の漫画の中には、さまざまな驚きと発見が隠されている。

たとえばロジェ・マルタン・デュ・ガール著『チボー家の人々』を題材にした表題作は、読書の醍醐味そのものを再発見させてくれる。主人公の女学生は、流れていく日々の生活の中で『チボー家の人々』をゆっくりと読破する。極端に言えばただそれだけの物語。しかし、だからこそ『黄色い本』には、本を読む習慣のある人間にとってたまらない感動が詰まっている。いい本に出合い、その世界の中に没入して読みふけり、ある種のせつなさと共に読み終える。この一連の流れの中で抱く読者の複雑な気持ちが、さりげないあの手この手によって見事に再現されてゆく様の、なんとみずみずしく美しいことか。

ほかに収録されているのは、縁の不思議を絶妙に描く2つの短編と、オリジナルとは視点を切り替えて描かれた冬野さほの短編漫画のカバー。どの内容も、一度読んだだけではとても味わいきれないほど奥が深い。よく理解できない箇所があっても、描写を手がかりに想像を駆使しつつ読み込めば、見えてくるものがある。そして、ああ、そうだったのか!と一度感動したら、また何度もじっくり読み返したくなる好循環。まさに一生ものの1冊。(横山雅啓)


↑大絶賛だね。

昨日おとつい、どうしてだか忘れたけれど、高野文子という漫画家の名前を知った。アマゾンで、別のマンガを探していたらたどり着いた。たぶん、アンダルシアの夏から黒田硫黄。そこから、色々な人のリストを辿っていって、「黄色い本」に遭遇したかんじだ。

彼女の作品についてレビューを書いた人のほとんどが、とても好意的に作品を受け入れていた。みんな、ほめている。

で、「おひょー、実は名作か。知らんだけで、有名人か」そんなこと考えながら、彼女の作品を3冊くらいカートに入れて、衝動買いしそうになったところで、やめた。
ちょっと高いよなぁ、って。

それから一夜明けて今日。夕方、家を出る時間を早めて、古本屋に寄ってみたらあった。300円で、背表紙が色褪せている「黄色い本」。
全然、状態よくねーなぁ。と思いつつ、レジに持っていって買った。

バイトの休憩時間に読んでみて思ったのは、おもしろいなぁ、ってことと、他の作品も読んでみたいなぁということだった。
ひさしぶりにマンガにはまった感じがする。

「黄色い本」では、日常が描かれている。荒唐無稽な冒険物語でもファンタジーでもなく、パワーインフレが起こるような格闘マンガでもない。
でも、その日常と自分を取り巻く社会の距離感が、とても気持ちいい。それに彼女の描き方にも、すごく魅力を感じる。

とくに表題作は、生活の細部に向けられる視点がありながら、描かれた世界がこじんまりとしていないところが、いいと思う。
定価で買って、ちゃんと感動したぶんの対価を作者にお返したほうがいいのかもしれない。

物語のテンポも好きだ。
内容(「BOOK」データベースより)
羊飼いの少年サンチャゴは、アンダルシアの平原からエジプトのピラミッドに向けて旅に出た。そこに、彼を待つ宝物が隠されているという夢を信じて。長い時間を共に過ごした羊たちを売り、アフリカの砂漠を越えて少年はピラミッドを目指す。「何かを強く望めば宇宙のすべてが協力して実現するように助けてくれる」「前兆に従うこと」少年は、錬金術師の導きと旅のさまざまな出会いと別れのなかで、人生の知恵を学んで行く。欧米をはじめ世界中でベストセラーとなった夢と勇気の物語。


知り合いが薦めていたので読んでみた

面白かったけど、とても安全な読み物のような気がした。
なんていうか、衝撃はない。読んでるときに、恐れみたいなものも感じられない。
読者の安心感を念頭において書かれたんじゃないだろうかと思うくらい、安全でやさしい印象を受けた。

でも、そのことでいいとか悪いと判断すべきじゃないだろうし。
そもそも、それは作者の意図していない機能で、自分が勝手に解釈している部分なのだと思う。

それに、夢を追求することに対して、励まされるような気分にもなれる。がんばろうかなぁ、と思える。平易でわかりやすい文章で書かれていて、読みやすいので、たぶん中学生でも読めるだろう。

自分の場合は、読み終わったあとに、自分の世界が一変するような読書体験にはならなかった。

ただ、一時の安心感を得ることしかできないのは、読み手の責任なのかもしれない。

読書が逃避に感じられるのって、ちょっとした不幸だと思う。

追記
「茄子 アンダルシアの夏」が面白かった。
47分でコンパクトな感じ。

ちょっとしたメロドラマなのかも。
あれがメロドラマなら、メロドラマも悪くない。

エンディング近くでおっさんが歌い出した歌が気に入らないが。
内容(「BOOK」データベースより)
“リヤカーマン”と呼ばれる若い冒険家・永瀬忠志さんは、一年がかりで歩いてアフリカ大陸を横断・縦断して、一万一千キロの旅を達成した。小学生のころからの夢だったこの冒険を、永瀬さんはどのようにして実現させていったのか、また、どのような方法で旅をつづけていったのか―これは、その記録である。小学中級から。

内容(「MARC」データベースより)
"リヤカーマン"と呼ばれる著者は、1年がかりで歩いてアフリカ大陸を横断・縦断して、11000キロの旅を達成した。子供の頃からの夢だったこの冒険を、どのように実現させていったのか? これは、その旅の記録である。


永瀬 忠志 【NAGASE Tadashi】

1956 年、島根県生まれ。90年11月の「地平線報告会」第133回報告者。83年、徒歩でアフリカ大陸横断。さらにサハラ越えを目指しながらリヤカーを盗まれ 6700キロ地点、216日めに断念する。6年後、89年6月にケニアから旅をやり直し、アフリカ大陸を横断、サハラを縦断してパリの凱旋門にゴール。リヤカー「田吾作3号」の総重量は220キロ、歩行距離1万1100キロ、376日間を歩き続けた。

今、彼のブラジルでの冒険を特集した番組を見た。

長瀬さんのやってきたことに心を打つ人もいれば、なんとも思わない人もいるだろう。それは、その人の考え方だと思う。

でも、自分の損得だけで考えていたら、彼のような生き方は絶対にできないと思う。せいぜい、社会的な文脈の中に埋もれてなんとなく生きるだけだ。
ただ、それだって、十分にむずかしいし。そんなふうに生きることを、完全に拒否できるのは狂人くらいだと思うけれど。

今日は、昨日よりもマシな気分だ。部屋の掃除には時間がかからなかった。出願用のエッセイは、未だに完成していないけれど、すこし進んだ。

人が言ったことを理解することは、送り手の表現しようとした内容を再構築して追体験することらしい。”理解”の定義は、色々あるけれど、今日探してみたなかで、自然言語理解の分野に近い、その定義が一番しっくりきた。

自分の中で意味の再構成をするためには、送り手と共有する部分がなければ無理だってさ。たしか、そんなことが書いてあった。

理解できないことばっかで、ほとんどがほったらかしだ。
なかには「わからないから面白い」という部分も、もちろんあるだろうけれど、わからず屋にはなりたくないと思う。

追記
茂木健一郎のクオリア日記というのをたまたま見つけて、旅について書かれた部分を読んで、冒険をすることと社会の文脈を離れることも、ちょっとつながっているのかなと思った。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/01/post_29.html
自分の中に毒を持て あなたは“常識人間”を捨てられるか
著者が1993年に出した文庫本の新装版。亡くなる3年前に書き残した。

 今を生きる人々を叱咤激励している。自分の人生を振り返って、この世に生まれ出た瞬間から(覚えているわけではないだろうが)、小学校時代、パリ留学時代、今日に至るまでを「決められた枠にはまらずに、自分の思いを爆発させ続けてきた連続だ」と言う。

 著者の主張は明快だ。「集団に馴染むために個性を殺すな。1人ひとりが本気で考え、自分の思いを爆発させなければ、世界はつまらなくなる」。

 何かを生み出すためには、自分を追い込むことが必要だ、という言葉は芸術家として生き抜いた著者の叫びだ。

 数々の前衛的な芸術作品に込められた熱く厳しいメッセージが伝わってきて、勇気づけられる。



東京の友達の家に置いてあった。読み始めると面白かったので、ジュンク堂で買ってきた。タイトルは、あんま好きじゃない。

以下、感想文

旅行に行ってる間、友達の部屋のTVでヘッポコバンドを見た
あれは、たぶんプロモビデオだと思う。なかなか男前の、性格暗そうな青年がマイク握って「たいくつだーたいくつだー」って退屈な歌詞を、退屈な音とメロディにのせて叫んでた。

ああいうふうに、斜に構えた態度をとって、かっこつけんのはそんなに難しいことじゃないと思う。

いくらカッコつけても、笑いにしかならん場合もあるが。
たいていの場合、「あれは、ちょっとやってみただけ」って言えるから。だってまっすぐじゃなく、斜にかまえてんだから。

岡本太郎のことを何もしらんで、なぜか馬鹿にしてたのだが。
この本は、かなり熱い本だ。活字からなのに情熱ってやつが伝わってきますよ、奥さん。

絶えず自分を更新し続けること。自分と対峙すること。
そんなふうに生きることを実践してきた芸術家の言葉は、変にひねくれた表面的な歌詞より、ずっとまっすぐに伝わってくるし、メチャメチャかっこいい。
再生産一辺倒のヘッポコバンドには、空虚な気分しか感じない

別にニヒリズムに陥ったふりすんのはかまわないけど、誰かになんかしてもらおうって魂胆がむかつく。
甘えてんじゃねー、ボケ。って思う。つまんねーのは、おまえだ。

とかなんとかこんなふうに、顔さらしてなけりゃ。
なんでも好き勝手言える。たぶん面と向かっては、言えないだろう。そこらへんのみたいな部分も全部なくして、ぶつかっていくってことなんだろうね。
危険な道を選択するのは、やっぱり簡単なことじゃないと思う。
せめて、いじけないで生きて行きたいものだ。

追記

「ぼくは絶対に、変わらない社会と妥協しない、これが、ぼくの姿勢だ。」だってさ。

普段、妥協しまくりのわたしは、そのラインにやられたのでした。
いや本当に。元気が出る本だと思う。
空港で、Natsumenの「Newsummerboy」を聞きながら、この本読んでいるとなにやら感動してきて、泣きそうになって困ったくらい。
いい大人が昼間から空港の出発ロビーで涙を流してるのなんてアホみたいだから、泣かなかったけど。

最後のほう、呪術について書かれた部分については、何を言ってるのかちょっと理解できなかったけど。岡本の言葉は、まっすぐだ。それは愚直にではない。

彼の本を読んでいると、全能感が広がる。
何でも出来るような気分。

全能感自体は、原動力にはなっても方法にはならない。
現実に対抗するためにはもっと現実的にならなきゃだめなんだろうけど。やっぱり、身の程を知るのはもっと後でいいと思う。

「夢を見ることは青春の特権だ。身のほどを知る必要なんかない。」って、太郎も言ってたし。やっぱり、そこらへんは賛成。

さらに追記
今日やっと、北海道に帰ってきた。家は落ち着く。
GREの勉強は終わり!イエーイ。
ミニマムだけど、スコアゲットだぜ。

明日からは別のことをやるぞー。っとその前に免許の更新

2006年10月27日 読書
内容(「MARC」データベースより)
1990年代初頭、トルコ北東部の地方都市カルス。雇われ記者の詩人Kaは、イスラム過激派によるクーデター事件に遭遇し、宗教と暴力の渦中に巻き込まれ…。世界40か国語に翻訳され、各国でベストセラーとなった超話題作。


オルハンさんは今年、ノーベル文学賞を受賞したそうです。

そんなわけで私も便乗して、この本を読み始めて2週間が過ぎたにもかかわらず、未だに読み終えていない。
明日は、返却日だ。たぶん、予約入ってると思う
また、時間があるときに読もうと思った。

今日はユニクロに行ってきた。ユニクロの服には、2シーズンくらいしかもたないものが多いけど、あまりクセがなくて色が豊富にあるのが、いいと思う。ただ、無難を通り越して、野暮ったいものもわりとある気がする。

あと気のせいかもしれないけど、婦人もののほうが、よくできてる気がした。

明日はバイト。

追記
昨日、ぶくぶく太った夢を見た。夢の中の自分は、なぜか、図書館の中、上半身裸で突っ立っていた。床に落ちていたTシャツを拾って着てみたが、サイズが小さくて入らない。とても焦った。
Tシャツに袖を通す段階で、ぶくぶくと太りはじめ。なぜか遠くから「ドラゴンボールZ」のオープニングテーマが聞こえる。

「ちゃら、へっちゃら。」とかなんとか。気合の入った、限りなく内容のない熱唱をバックに、入らないシャツを頭に被ったままジタバタしていると目が覚めた。

身の丈に合わない見栄を張ろうとしながら、全くそれが機能していないことを表しているのかもしれない。と自己分析。

見栄はらずに生きていけたら、もっと楽だよな。
(これ以上楽するなんておこがましいにほどがある。)

新宿 1965‐97

2006年10月18日 読書
内容(「MARC」データベースより)
娼婦、ヤクザ、オカマ、ヌード嬢、チンピラ、ホステス、酔客、家出少年など、日本最大の歓楽街、新宿を舞台に撮り続けて30年。さまざまな人々の人生を見つめるモノクロ写真集。〈ソフトカバー〉



この前、姉に頼まれて、姪のために「ニコラ」を借りた。
興味のなさ全開で、一分もたたない間に表紙から裏表紙へと、ページをめくり終えた姪っこは言った。
「もう、いい。はい、これ。」「もう返してきていいよ。」って

「左様ですか。」ってな具合に『ニコラ』を受け取り、パシリのようにブックポストまで走り入れて帰ってきたあと、「なんだよ、せっかく借りてきてやったのに...」などと、大人気のない小言を私が吐いていると、姪っ子に「だって、あれ6月号だし、あんな寒そうな格好できんわ。」と言われた。

もっともなことを言われた俺は、「何月号かどうかなんて、どうでもいいじゃねーか」と理不尽な愚痴を反芻しながら、自分のために借りてきた渡辺克己の写真集を開き、見始めた。

なんでここまで長々とどうでもいいことを書いたかというと、クソ恥ずかしい思いをして借りた『ニコラ』よりも渡辺克己の写真集のほうが、小学生の姪には、不思議と受けがよかったからです。
それが、とても不思議に思いました。

写真集の主な被写体は、新宿にいた人々です。娼婦、ヤクザ、オカマ、ヌード嬢、チンピラ、ホステス、酔客、家出少年。
私は、そういう人たちにはほとんど会ったことがありません。
そんなわけで、怖いもの見たさで借りてきました。

失礼なのかもしれないけれど、面白いです。というか、すごく興味をひく写真ばかりでした。1965年から97年に撮られた写真が、年代順に並べられていて、それ全体がドキュメンタリーとして機能していました。

あとは、なんか書こうと思って忘れてしまった。

追記
うわっつらしかすくってないレビューで、言葉が表面をツルツル滑ってる気がする。浮ついてるかんじ。

本当は、すごくシリアスな写真集だと思います。あまり「きれいだな」って思うことはなくて、むしろ派手な化粧やけばい格好の人ばかりで、清潔感のない写真が多いような気がしますが、それが逆にこの写真集の魅力だと私は思います。
(悪い意味で言ってるわけじゃなくて。そういう部分を見ているときに感じるものは、一般的にきれいとみなされているものを見たときには感じられないものだし。)

陳腐な言い方かもしれないけれど、きれいとか汚いとか、そういう価値判断は、時代だったり社会だったり、その状況が置かれている文脈に依存するわけで...

中途半端に制度や文脈に従順な、作為的な美しさよりも、
ずっと迫真性を持った表現のような気がします。
(表現しようと思って撮られたものじゃないだろうけど。)

追記
最近、日記書きすぎだと思う。
やっぱ時間決めて書くべきだ。ファミコンみたいに。

叶えられた祈り

2006年10月15日 読書
内容(「BOOK」データベースより)
ハイソサエティの退廃的な生活。それをニヒルに眺めながらも、そんな世界にあこがれている作家志望の男娼。この青年こそ著者自身の分身である。また実在人物の内輪話も数多く描かれていたので、社交界の人々を激怒させた。自ら最高傑作と称しながらも、ついに未完に終わったため、残りの原稿がどこかに存在するのでは、という噂も。著者を苦しませ破滅へと追い込んだ問題の遺作。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
カポーティ,トルーマン
1924‐1984。ルイジアナ州ニューオーリンズ生れ。21歳の時「ミリアム」でO・ヘンリ賞を受賞(同賞は計3回受賞)。’48年『遠い声遠い部屋』を刊行、早熟の天才―恐るべき子供、と注目を浴びた。晩年はアルコールと薬物中毒に苦しみ、ハリウッドの友人宅で急死した

川本 三郎
1944年生れ。評論家


今日はバイトだった。帰ってきて、佐々木倫子のマンガを読んで元気が出る。「Heaven?」というタイトルの本、3巻から6巻まで。途中から読んだのだけれど、とても面白かった。

夕方、両親は少し遅れて帰ってきた。ダンボールを抱えた母のうしろから、帰宅第一声、父は「今日の晩飯は豪華だぜい。」と陽気に言った。

母が苦笑い。

そんなわけで30分後、僕ら3人はチキンラーメンをすすっていた。
「な、今日は豪華だろ?」と父が笑顔で言ったので、「そうだね」と言った。チキンラーメンはうまい。体に悪そうな味だが、たまに食べたくなる。

結局、金井美恵子の小説はほったらかし。

今は、この本を読んでいる。カポーティの小説どころか、外国の小説はほとんど読んだことがなかったので、ちょっと新鮮。
どうやら、この作品は、ゴシップ小説と形容されるらしいけど、そういうのを読んだのもはじめてだ。カポーティの遺作らしいです。読み始めてから、知りました

まだ1章しか読んでいないし、最後まで読むかどうかも怪しいけれど。すこし安心するような事が書いてあったところがあった。それがいいことかどうかはわからない。

コレットがP・Bジョーンズにペーパーウェイトをあげるシーンで。
彼女はこんなこんなことを言っている。

「それをポケットにお入れなさい。ずっと持っていてそれを見ては、永遠や完璧さをのぞんだり、大人になることをのぞむのは、結局、オブジェか祭壇かステンドグラスの窓のなかの聖人になることでしかないということを思い出しなさい。どれもみんな大事にはされるかもしれないけど、そんなものになるより、くしゃみをしたり人間らしさを感じたりするほうがずっといいのよ。」

ここでの、大人になる、という表現は、「」で括ってもいい場所かもしれない。

それより少し前のページで、「大人になりたいんです」と言ったジョーンズに、コレットは「大人になるっていうことは、知性だけのひからびた服を着た人間になるってことなの?羨望とか悪意とか貪欲さとか罪とか、そうした欠点をみんななくしてしまうこと?」と問いかけている。

こういうふうに、それらしいモットーを引き合いに出して読んでしまう時点で、自分(24歳)の人生経験の無さをさらしているようで、残念だけど、実際問題、こういうところに反応してしまっているのだから仕方がない。

要は「無菌同然の場所じゃ、息がつまる」ってことじゃないかと思う。いや、ちがうかも...
「完璧な人格者になんかなれないし、目指す必要ない」ってことかな...これも違う気もする。つーか、一行で言えることを言うだけなら、もともと小説なんか書いてないよね。

「Heaven?」のオーナーは、自己中でわがままで、どうしようもないくらい子供じみているところがあると思うけど、魅力的に感じる。
実際、あんな人を相手にしたら、疲れてしまうだろうけど。

でも、社会の構成員になるためには、程度に差があったり、表面的にだったりしたとしても「大人になる」ことを求められると思う。みんながみんな、マンガの中のオーナーのように振舞えないし、振舞う気にはなれない。だからこそ、伊賀君や伊賀君の祖父が彼女に対して、羨ましさを感じてしまうのだと思う。

(勘違いでなければ、マンガに書いてあることを、路襲してます。)
内容(「BOOK」データベースより)
著者がコペル君の精神的成長に託して語り伝えようとしたものは何か。それは、人生いかに生くべきか問うとき、常にその問いが社会科学的認識とは何かという問題と切り離すことなく問わなければならぬ、というメッセージがあった。著者の没後追悼の意をこめて書かれた「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」 (丸山真男)を付載。

内容(「MARC」データベースより)
「人生いかに生くべきかという問いは、常に社会科学的認識とは何かという問題と切り離すことなく問われねばならない」というメッセージを、主人公コペル君の精神的成長に託して伝える。


もうすこし若い人、例えば中学生が読む本だと思います。
24歳のモラトリアム人間が読んでみても、新しい発見はほとんどありませんがも、生きることについて思い直すことは色々できるんじゃないかと思います。

書かれていることは、今でも大切なことばかりですし、作中人物の中学生・コぺル君に対して、語りかける口調で書かれているので、とてもわかりやすく提示されています。

そんなわけで、すこし生き方を考え直したいときにいいかもしれません。とくに3番目と5番目の「おじさんノート」が、よかったです。
心がけてても、いつのまにか忘れてしまうことがあると思うので、これからも読むことがあるかもしれません。

追記
成長する段階で、とくに青年に言える事で。
「感動したものや尊敬する人物、思想に同化する傾向がある。」ということを、前に聞いたことがある。

それが本当かどうかわからないけれど、マーズボルタを聴いてアフロにするとか、好きな作家が猫好きで、急に自分も猫好きになるとか。他にも、好きな経済学者が薦めていた本を探してしまうとか。そういう些細なことも含めて、わりと「そういう傾向はあるかもなぁ」と思うことが多い。自分のことだけじゃなしに。

芸術以外にだってそういうことは言えるだろう。師匠を見つけて、それを真似することから自分のスタイルを見つけていくことはどの分野でも見られることだ。鉄骨屋や大工、農業とかそういう1次産業や2次産業の分野の仕事にだって、同じことが言えると思う。
それ全体を「モノマネ」として、形容してしまうのには抵抗がある。

まったく同じものになろうとすることには、問題があるように思うけれど、部分的に真似ることは、別に悪いことじゃないと思う。

ただ、サンプリングばっかやってても、どうしようもない。
...という気もする

さらに追記
最近、卑屈になりがちだったので、わりといいタイミングで
この本を読んだと思う。消費一辺倒な生活から脱出したいものだ。

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