リアカーをひいて歩こう
2006年11月23日 読書内容(「BOOK」データベースより)
“リヤカーマン”と呼ばれる若い冒険家・永瀬忠志さんは、一年がかりで歩いてアフリカ大陸を横断・縦断して、一万一千キロの旅を達成した。小学生のころからの夢だったこの冒険を、永瀬さんはどのようにして実現させていったのか、また、どのような方法で旅をつづけていったのか―これは、その記録である。小学中級から。
内容(「MARC」データベースより)
"リヤカーマン"と呼ばれる著者は、1年がかりで歩いてアフリカ大陸を横断・縦断して、11000キロの旅を達成した。子供の頃からの夢だったこの冒険を、どのように実現させていったのか? これは、その旅の記録である。
永瀬 忠志 【NAGASE Tadashi】
1956 年、島根県生まれ。90年11月の「地平線報告会」第133回報告者。83年、徒歩でアフリカ大陸横断。さらにサハラ越えを目指しながらリヤカーを盗まれ 6700キロ地点、216日めに断念する。6年後、89年6月にケニアから旅をやり直し、アフリカ大陸を横断、サハラを縦断してパリの凱旋門にゴール。リヤカー「田吾作3号」の総重量は220キロ、歩行距離1万1100キロ、376日間を歩き続けた。
今、彼のブラジルでの冒険を特集した番組を見た。
長瀬さんのやってきたことに心を打つ人もいれば、なんとも思わない人もいるだろう。それは、その人の考え方だと思う。
でも、自分の損得だけで考えていたら、彼のような生き方は絶対にできないと思う。せいぜい、社会的な文脈の中に埋もれてなんとなく生きるだけだ。
ただ、それだって、十分にむずかしいし。そんなふうに生きることを、完全に拒否できるのは狂人くらいだと思うけれど。
今日は、昨日よりもマシな気分だ。部屋の掃除には時間がかからなかった。出願用のエッセイは、未だに完成していないけれど、すこし進んだ。
人が言ったことを理解することは、送り手の表現しようとした内容を再構築して追体験することらしい。”理解”の定義は、色々あるけれど、今日探してみたなかで、自然言語理解の分野に近い、その定義が一番しっくりきた。
自分の中で意味の再構成をするためには、送り手と共有する部分がなければ無理だってさ。たしか、そんなことが書いてあった。
理解できないことばっかで、ほとんどがほったらかしだ。
なかには「わからないから面白い」という部分も、もちろんあるだろうけれど、わからず屋にはなりたくないと思う。
追記
茂木健一郎のクオリア日記というのをたまたま見つけて、旅について書かれた部分を読んで、冒険をすることと社会の文脈を離れることも、ちょっとつながっているのかなと思った。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/01/post_29.html
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